戦略メモ / 2 枚組のうち短いほう

マイナウォレットの次を、
どう取りにいくか

慣れた人と、嫌だと思って離れた人。相手は二種類いる。技術の話は詳細版に譲り、ここでは「誰が、なぜ、どこで選ぶのか」だけを書く。

いい物を作れば乗り換えてもらえる、ということはない。
人はウォレットを乗り換えない。困っていないから。

01

まず、「シードフレーズなし」には種類がある

ここが混ざっていると議論が進まない。同じ「シードフレーズなし」でも、秘密をどこに移したかが違う。移した先によって、なくしたときの結末が変わる。

秘密はどこにあるなくしたら弱点
ふつうの
ウォレット
紙(24 語) 終わり 一生なくせない。子どもと高齢者には無理
Tangem
など
物(カード) 予備カードがあれば戻せる。全部失えば復元不能 結局「物をなくさない」問題は残る。ADA ステーキングは 2026年1月に対応したが、ガバナンス投票は未対応とみられる
zkFold
(Cardano)
Google アカウント ログインし直せば戻せる Google に締め出されたら終わり。Google の鍵更新でも切れうる
マイナ
ウォレット
身元(公的 ID) 本人確認をやり直せば戻せる 誰のどの口座か、知られうる
これから
作るもの
身元(ただし「証明」だけ) 同じく戻せる 部品は揃った。まだ誰も繋いでいない

Tangem が解いたのは「紙を持たない」ところまでで、「なくしても取り戻せる」は解いていない。秘密を紙からカードに移しただけなので、依然として物に依存している。

マイナウォレットは、そこを初めて越えた。秘密を人そのものに紐づけたので、全部なくしても本人確認からやり直せる。ここは素直に評価すべきところにあたる。

同じ IC カードなのに、なくしたときの結末が違う

面白いのは、Tangem のカードもマイナンバーカードも、中身は同じ種類の IC チップだという点である。違いはハードにはない。カードの後ろに何があるかだけが違う。

カードの後ろに何があるか
Tangem のカード
  └ 鍵そのものが入っている
      後ろには、何もない
      → 3 枚とも失えば、終わり

マイナンバーカード
  └ 鍵も入っているが
      後ろに住民基本台帳がある
      → なくしても、役所で作り直せる

つまり「カードを 3 枚持つ」は解決ではない。枚数を増やして、全部なくす確率を下げているだけである。復旧できるかどうかを決めているのは枚数ではなく、後ろに台帳があるかどうかにあたる。

ただし、台帳にも二種類ある

zkFold が後ろに置いたのは Google のアカウント台帳である。これは消せるし、止められる。判断は向こうにあり、争う手段が実質ない。
公的個人認証が後ろに置いているのは人間の登録である。カードは失くせても、その人が日本に住んでいる事実は消せない。

追い出されるかどうか
Tangem のカード    後ろに何もない       → 全部失えば終わり
zkFold の Google  後ろにアカウントDB   → 追い出されたら終わり
公的個人認証      後ろに人間の登録     → 追い出されようがない

「役所のほうが便利」ではない。追い出せない根拠に紐づけられるのが、この方式だけだという話になる。

そして残っているのが最後の一行、「戻せるのに、見られない」である。後ろの台帳は使う。ただし台帳の側から、こちらの中身は見えないようにする。

02

相手は二種類いる。強いのは後のほう

「マイナウォレットに慣れた人をどう取り込むか」は自然な問いだが、もう一種類いる。マイナウォレットを見て、嫌だと思って離れた人である。この二つはまったく性質が違う。

慣れた人嫌だと思った人
いまの状態満足して使っているどこにも行っていない
動く理由ない。困っていないからすでにある。見られたくない
乗り換えの手間高い。移行が要るゼロ。移る先がないだけ
必要な説得もっと簡単であること見られないこと
人数多い少ない
声の大きさふつう大きい

慣れた人は動かない。困っていないからである。この層に届く道は一つしかなく、配る側(自治体・事業者)が採用したときだけになる。

一方、嫌だと思った人はすでに動機を持っていて、しかも今その行き先がない。奪う必要がない。こぼれたものを拾うだけである。

そして見落としてはいけないのが最後の行になる。「国に全部見られるじゃん」と言った人は、たいてい周りに向かってそれを言う人である。この層を先に押さえると、説明を代わりにやってくれる。人数が少ないことは、必ずしも弱点にならない。

ここから順番が決まる

最初の利用者は「嫌だと思った人」にする。この層は動機があるので、多少の不便を許してくれる。だから完成度が低いうちに出せる。
「子どもでもおじいちゃんでも」が必須要件になるのは次の段階、自治体経由で配るときである。順番を逆にすると、完璧を目指したまま何も出ないことになる。

03

ところで、カードを盗まれたら?

先に安心できるほうから。カードだけでは復旧できない。JPKI で署名するには暗証番号が要る。かざすだけでは何も起きない。数回間違えればロックされ、解除は窓口に行くしかない。総当たりは効かない。気づいた時点で、24 時間受付の窓口に電話すれば電子証明書を止められる。

だから「盗まれた=即アウト」ではない。問題は別のところに二つある。

一つ目:カードと暗証番号は、たいてい同じ財布にある

設計上は 2 要素でも、運用では 1 つを盗んだのと変わらない。暗証番号を書いたメモが一緒に入っている人は珍しくないし、家族なら両方に手が届く。2 要素が同時に落ちる。

二つ目:復旧とは、鍵を差し替える操作である

ここが従来の盗難と質的に違う。

なにが違うのか
ふつうの盗難
  カードを盗む → 使うには、あなたの端末が要る

復旧を使った乗っ取り
  カードを盗む → 自分の端末に復旧する
              → あなたの端末は、もう関係ない

盗んだ人は、あなたのスマホを必要としない。自分のスマホの中に、あなたの口座を作り直せる。

だから、決定的なのは時間になる

カードを盗まれたとき、本人はまだスマホを持っている。だから復旧に待機期間があり、元の端末に通知が飛べば、本人が「これは自分じゃない」と止められる。逆に、認証が通った瞬間に完了する設計なら、気づいたときには終わっている。

確認すべき一点

マイナウォレットの公開情報からは、待機期間や旧端末への通知があるかどうかは読み取れなかった。ないとは限らない。ただし、聞くべき質問はここだと言える。「JPKI 認証が通ったら、その場で復旧は完了しますか」。

そしてこれは、こちらの売り文句が三行になるということでもある。

三行目が増えた
なくしても、戻せます
誰にも、見られません
勝手に、戻されません   ← これ
04

では、どこで困るのか

本命

自治体・事業者が導入するとき

地域通貨、給付金、商店街のポイント。利用者が選ぶのではなく、配る側が選ぶ。そして配る側は「住民の残高や購買履歴が事業者に見える構成でよいのか」を必ず問われる。ここが最も現実的な入り口にあたる。

営業先は利用者ではなく、自治体と事業者になる。

次点

家族に引き継ぎたいとき

相続と終活。本人がいなくなった後をどうするかは、いまのウォレットがどれも答えを持っていない領域である。しかも高齢者ほど切実で、金額も大きい

競合がいない。時間はかかるが、確実に需要がある。

補助

ステーキングやガバナンスをしたいとき

Tangem がガバナンスに対応していないように、この領域は後回しにされやすい。ただし対象はすでに ADA を持っている人に限られるので、新規の取り込みにはならない。

既存利用者の維持には効くが、乗り換えの動機にはなりにくい。

05

「子どもでも、おじいちゃんでも」を要件に落とす

これは第二段階の要件である。最初の利用者には求められないが、自治体経由で配る段になった瞬間、これが満たせなければ話が終わる。どれだけ設計が正しくても、難しければ選ばれない。抽象論にしないために、判定できる形に書き下しておく。

最後の一つは技術的にいちばん厄介で、しかも避けて通れない。手数料を誰かが肩代わりする仕組みがないと、この層には届かない。

06

手数料の壁を、どう越えるか

「送るには、まず ADA を買ってください」は、おじいちゃんには説明できない。ここを越える道は三つある。それぞれ解いている問題が違うので、混ぜないほうがいい。

やり方誰が払う解ける問題残る問題
肩代わり
(マイナウォレット)
事業者 何も持っていない人でも送れる 誰かが払い続けている。やめたら終わる
別のもので
払う
利用者
(ステーブルコイン等で)
基軸トークンを買う手間 結局、残高からは引かれる
持っていると
湧く(Midnight)
スポンサーが肩代わり。
ただし現金は出ない
買い足す必要も、
最初の一歩も、両方
Midnight 上の話にとどまる

マイナウォレットが上手いのは、技術ではなく決断

ERC-4337 の Paymaster は「肩代わりできる仕組み」を用意しているだけで、実際に払うと決めたのは事業者である。つまり彼らが越えたのは技術の壁ではなく、誰が負担するかを決めるという経営の壁だった。

裏を返せば、これは真似できるということでもある。技術的な参入障壁ではない。ただし払い続けられるかは別問題として残る。公開資料で「条件付き」と説明されているのも、おそらくそのためである。

Midnight の DUST は、肩代わりの意味からして違う

NIGHT を持っていると、DUST が自動的に湧いてくる。太陽光パネルと電気の関係に近い。使えばまた溜まり、上限まで来たら止まる。手数料は DUST でしか払えず、NIGHT 本体は減らない。

そして肝心なのはここ。DUST は人に譲れないのに、肩代わりはできる。

矛盾しているようだが、そうではない。DUST を送るのではなく、取引の手数料の部分だけをスポンサーが埋めるという形になっている。

二人で一つの取引を成立させる
利用者     自分の資産の部分だけ、帳尻を合わせる
              ↓
スポンサー  手数料(DUST)の部分だけを埋める
              ↓
          取引が成立する

→ 利用者は NIGHT も DUST も持っていなくていい

dApp の提供者が NIGHT を持ってさえいれば、利用者は何も持たずに使い始められる。初回無料のミント、デモ、配布。冷たいスタートの問題が構造的に解ける。しかも DUST 自体は売買できないので、肩代わりが価値の横流しに使われることもない。

ここが一番大きな違い

マイナウォレットの肩代わりは「払い続ける」。
Midnight の肩代わりは「持ち続ける」。

払い続けるのは費用である。使われるほど減り、やめたら止まる。持ち続けるのは資産である。DUST は時間で戻るので、使っても在庫が減らない。

ERC-4337 の Paymaster では、事業者が実際に ETH を燃やしている。利用者が増えるほど現金が出ていく。Midnight では、事業者は NIGHT を持っているだけでよい。ランニングコストが構造的にほぼゼロになる。

自治体に配布を提案する場面を想像すると、この差は効く。「毎年いくら手数料予算を積みますか」と「最初に NIGHT を用意してください」では、通しやすさがまるで違う。前者は毎年の査定にかかり、後者は一度で終わる。

ただし、これは Midnight 上の話

資産を Cardano 本体に置く設計なら、本体側の手数料は ADA で払うことになる。DUST は効かない。つまりここは、まだ決まっていない設計上の分かれ道になる。

決めていない分岐
A  資産は Cardano 本体、身元の証明だけ Midnight
     → 本体側の手数料問題は、自力で解くことになる

B  日常の決済そのものを Midnight 側に置く
     → 手数料は解ける
     → ただし Cardano 本体の資産とどうつなぐかが課題になる

この選択は誰も決めていない。次に考えるべきは、たぶんここである。

そのうえで、我々が採る順番

最初は何もしなくていい。02 で決めた最初の利用者――嫌だと思って離れた人――は、自分で手数料を払える。動機がある人は、その程度の不便は越える。

肩代わりの仕組みが要るのは、自治体経由で配る段になったときである。そこで初めて「誰が払うか」を決めればいい。マイナウォレットと同じ決断を、同じ順番でやることになる。

07

売り文句は一行で言えないといけない

言えるものと、言えないもの
× UTxO モデルで validator が支出条件を検証し…
× Account Abstraction 相当の機能を実現し…
× ERC-4337 と同等のことが Cardano でも…

○ なくしても、戻せます。
  誰にも、見られません。
  勝手に、戻されません。

上の三つは、こちらの都合である。下の三行は、相手の関心にあたる。「戻せる」だけならマイナウォレットが先にやっている。「見られない」だけなら、それは怪しい送金の道具に見える。三つ揃って初めて意味を持つ。

08

いま、誰になら出せるのか

一般向けにはまだ出せない。足りないものが三つある。

ただし、これは「一般向けには」の話である。02 で見た「嫌だと思った人」に対してなら、この三つが未完成でも出せる。手数料を自分で払うことも、画面が多少ぶっきらぼうなことも、その人たちは受け入れる。見られないという一点に価値を感じているからである。

つまり順序はこうなる。まず動くものを一つ作り、動機のある少数に使ってもらう。そこで得た実物をもって、規格と自治体の話に進む。

そして、ゼロから作る必要はない

全面的な事実確認をした結果、Cardano には既に近いものが動いていた。この紙の初版は「まだ存在しない」と書いたが、誤りだった。

足りないのは技術ではなく、標準化と資金だった。Catalyst では関連提案が軒並み落選している(「シードフレーズを置き換える」提案も、パスキー提案も)。通ったのは zkFold だけである。

したがって現実的な出発点は、白紙から作ることではなく既にあるものを繋いで、日本の身元確認に合わせることになる。

先に確かめるべきことが、一つある

技術より先に効く論点が見つかった。guardian が操作鍵を差し替えられる設計は、法的に「暗号資産の管理」にあたる可能性がある。

金融庁のパブリックコメント回答(2020年)は、カストディに該当しない条件として「秘密鍵にアクセスする権限がない」ことに加えて「移転先を指定し、又は変更し得る権限がない」ことを挙げている。裏を返せば、事業者が一方的に owner を差し替えられる設計は、鍵を一切持たなくても登録が必要になりうる。

もう一つ、同じ回答が示している設計要件がある。guardian に事業者を置くなら、互いに独立していなければならない。委託関係で束ねると、親事業者が該当すると明言されている。子会社に持たせる形は使えない。

確かめる手段はある。グレーゾーン解消制度で、近い先例(パスキー認証のウォレット)は照会から回答まで約1か月だった。設計を固める前に出す価値がある。

この紙の限界

ここに書いたのは判断の筋道であって、市場調査ではない。「冷ややかな反応が多い」というのも実際の観測に基づくものではなく、身近な反応から得た印象にとどまる。自治体や事業者が本当にプライバシーを理由に選ぶかどうかは、数件でいいので実際に聞いてみないと分からない。そこが次にやることになる。

また、マイナウォレットの復旧に待機期間や取消があるか、パスキーの署名をどこで検証しているか、コントラクトのアドレスや監査報告は、いずれも公開されていない。本文の比較はその範囲での判断である。JPYC が製品版で使えるという記載も一次資料には無く、登場するのは実証実験の文脈のみだった。

作るべきものは、機能の多いウォレットではない。
おじいちゃんが、孫に残せるウォレットである。